湯島天満宮
 境内のご案内

  1. HOME
  2. 境内のご案内

境内案内図

※⑥牛像(撫で牛)は2箇所にございます。
梅園(一部)改修工事を行っています。
(令和6年3月から令和7年1月予定)
工事に伴いまして「奇縁氷人石」「菅家遺戒碑」は移動いたしました。

境内の歴史

湯島境内は、広重の「江戸百景」などの画題となり、湯島十景、また武州洲学十二景に「南隣菅祠」と題されている。
古く文明十九年(1478)堯恵法師の「北国紀行」には当時の風致をたたえている。
天正十九年(1591)十一月、徳川家康公は湯島郷の内、御朱印五石を社有地として寄進した。
近世の縁日は、毎月十日・二十五日で、境内とその界隈は江戸有数の盛り場で、宮芝居や植木市、各地の出開帳があり、江戸町人の憩いの場として繁盛した。また富突は、今日の宝くじに当たり、谷中感応寺・目黒不動とともに江戸三富と称して代表的なものであった。

江都名所 湯しま天満宮

歌川広重
江都名所 湯しま天満宮
転載:国立国会図書館

名所江戸百景 湯しま天神坂上眺望

歌川広重 名所江戸百景 湯しま天神坂上眺望
転載:国立国会図書館

文化九年には(1812)湯島天神は目黒不動とともに公許され、境内は熱狂した群集でわきかえった。
泉鏡花の「婦系図」の舞台として演劇に映画に歌謡曲に「湯島の白梅」の名を高らしめた。
江戸期から明治にかけて、例年七月二十六日夜の拝月は、遠近の老若男女が群集して雑踏を極めた。また二月十日の祭礼には、砥餅(ともち)と号し砥石の形に作った餅を神供に備え、氏子へも同様の餅を配った。
境内には売薬香具見世・楊弓場があり、宮芝居が数度行われている。また文政七年(1824)正月境内で大相撲本場所も行われた。

奇縁氷人石
(きえんひょうじんせき)

奇縁氷人石この石柱の右側には「たつぬるかた」、左側には「をしふるかた」と記されています。
これは迷子がでたとき、子の名を書いた紙を右側に貼って探し、迷子がいた時、その子の特徴を書いた紙貼って知らせた「迷子しらせ石標」の名残りです。このことからも、境内が人で賑わい、江戸有数の盛り場であったことがわかります。

筆塚

「婦系図」の作者である泉 鏡花の「筆塚」も昭和十七年に、里見 惇、久保田万太郎、岩田藤七らによって建てられました。

牛像(撫で牛)

天神信仰の中でも、天神さまと牛とは切っても切れないものがあり、古くより様々な縁起・伝承を見ることが出来ます。
道真公は承和十二年六月二十五日乙丑の年に、ご生誕になり、延喜三年二月二十五日の丑の日に薨ぜられ、また「菅家聖廟略伝」には、菅公自ら遺言をされ、「自分の遺骸を牛にのせて人にひかせずに、その牛の行くところにとどめよ」とあり、その牛は、黙々と東に歩いて安楽寺四堂のほとりで動かなくなり、そこを御墓所と定めた、と書かれています。
ほかにも、天神さまと牛との関わりについて数多く見られ、道真公がいかに深く牛を慈しんでいたかも窺われます。

このようなことから当神社の境内には石造りの臥牛があり、牛の角をなでていく方、手を合わせていく方、鼻が悪いといって鼻をなで、足が悪いのでと足をなでていく方、・・・・・と多くの方々から「撫でうし」として信仰されています。

表鳥居
(東京都指定有形文化財)

この鳥居は銅製で、寛文7年(1667)同8年の刻銘があり、この時期に寄進された物です。
数度の修理を重ねて維持されてきましたが、都内に遺存する鋳造の鳥居としては時代も古く、製作も優秀なもので、昭和45年8月に東京都指定有形文化財に指定されました。
鳥居の様式は神明鳥居といわれるもので、横木が二重になり、反りをもって、柱が内側に傾いています。横木の上の方を笠木、下の方を島木といいます。
鳥居の大きさは、柱の下から上端についた台輪までの長さが3.88m、笠木上端の長さが6.81mです。

表鳥居

新派の碑

新派の碑
「新派」碑由来
この「新派」の記念碑は新派劇創立九十年を迎えた昭和五十二年十一月一日松竹株式会社と水谷八重子氏により新橋演舞場玄関脇に建てられました。

新派の始まりは明治二十一年十二月自由党壮士角藤定憲が同志を集め大阪の新町座で「大日本壮士改良演劇会」の旗揚げをしたのが起源とされています。
風雪はげしい九十年ではありましたが 今日「劇団新派」として隆盛を見ましたその先人たちの労苦を偲び併せて今後の精進を誓うべく記念碑の建立を見た次第です。
そして新橋演舞場の改築にあたり当湯島天神様のご好意により新派とは深い縁で結ばれております当湯島天神様のご境内に移させていただいたものです。
なお、碑の題字は作家の川口松太郎氏の揮毫により設計は舞台美術家の中嶋八郎氏です。
左側の梅樹は昭和三十一年新派の名優故花柳章太郎氏の献木によるもので奇しくも記念碑と献木が同じこの場所に並んだ次第です。
昭和五十四年四月二十六日

文具至宝碑

文具資料館

文具至宝碑銘文
文具至宝碑由来
中国より渡来した紙筆墨硯は文房四宝と称せられ読み書き算盤の寺子屋時代から明治の学制発布により高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた
今や文房具はOA器機にいたる迄その範疇を広げ四宝から至宝に至って戦後の日本国を世界の大国に復興せしめた教育の原動力となった十一月三日(文化の日)を文具の日として定め平成元年を迎えるに当たり先人に報恩感謝の念を捧げつつここ学問の神さま湯島天神の境内に文具至宝碑を建立する
平成元年十一月三日
文具資料館

「講談高座発祥の地」碑

「講談高座発祥の地」碑講談の「高座」発祥の地とされる当宮境内に、講談師で人間国宝の一龍齋貞水さんがその由来を示す記念碑を建立されました。
講談は江戸時代半ばころまで、街角の辻講釈など、聴衆と同じ目線の高さで演じられていたが、当宮の境内で活動していた講談師の伊東燕晋が文化4(1807)年、徳川家康の偉業を語る際に、高さ三尺の高座を設けたことが高座の始まりとされます。
「講談高座発祥の地」と刻まれた石碑は、高さ約2.1メートル、高座誕生の経緯が記されています。

王貞治氏の「努力の碑」

王貞治氏の「努力の碑」銘文
王貞治君は、昭和五十二年九月三日午後七時十分五秒、後楽園球場において通算本塁打七五六号を達成、前人未踏の世界記録を樹立しました。これをたたえて政府は、わが国初の「国民栄誉章」を贈り、また球界最高の「正力松太郎賞」初の受賞者となりました。これは、昭和三十三年読売巨人軍に入団以来試練の嵐に耐え、心技を研鑽した努力の結晶であります。王君は、これを記念し崇敬する湯島神社に、白梅一樹を献木いたしました。ここに有志相集い、王君の生涯の座右銘である「努力」の碑を建立、もって青少年の亀鑑とするものであります。(高さ2.3メートル)
昭和五十三年一月一日
有志代表
読売新聞社社主読売巨人軍オーナー:正力 亨
読売新聞社社長:務臺 三雄
日本テレビ社長:小林 與三次
セントラルリーグ会長:鈴木 竜二
湯島神社宮司:押見 守康
刻:山田 光造

※当サイト内の文章・画像等の内容の無断転載及び複製・転用を固く禁じます。(著作権法)