湯島天満宮縁起
御祭神・御由緒

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御祭神
天之手力雄命
(あめのたぢからをのみこと)
菅原道真公
(すがわらみちざねこう)
例祭日
五月二十五日
社名
湯島天満宮
御由緒
湯島天神は 西暦458年1月に雄略(ゆうりゃく)天皇(実在した最古の天皇)の勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀り創建されたと伝えられています。降って西暦1355年(正平十年)2月に郷民(住民)が菅原道真公の御偉徳を慕い本社に勧請(分霊を他の神社に移すこと)し文道の大祖(学問・文学の祖)として崇められ、合祀されました。
1478年(文明10年)10月に、太田道灌(おおた どうかん:室町時代後期に関東地方で活躍した武将)がこれを再建し、1590年(天正18年)に江戸城入りした徳川家康公は当社を篤く崇敬しました。
翌1591年(天正19年)11月に祭祀料として豊島郡湯島郷の内五石を朱印地に寄進し、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅原道真公の遺風(残した教え)を仰ぎ奉りました。
その後、学者や文人の参拝も絶えることなく続き、(※)林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石なども訪れました。
将軍徳川綱吉公が儒学の振興を図るために創建した湯島聖堂を昌平坂に移したことにより、この地を文教の中心として益々、湯島天満宮を崇敬しました。
1703年(元禄16年)火災で全焼したことにより、将軍綱吉公は翌1704年(宝永元年)に金五百両を寄進しました。
1872年(明治5年)10月には郷社(旧社格制度の区分)に列し、明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職に当たりました。
ついで同1885年(明治18年)8月に府社に昇格し同年に改築された社殿も老朽化が進んだため、1995年(平成7年)12月、後世に残る総檜造りで造営されました。
※人物の補足
林道春(はやし どうしゅん):林 羅山(はやし らざん)江戸時代初期の朱子学派儒学者。出家した後の号である道春の名でも知られる。
松永尺五(まつなが せきご):京都出身の江戸時代前期の儒学者。
堀杏庵(ほり きょうあん):江戸時代初期の医師・儒学者。
僧堯恵(ぎょうえ):室町時代中期の天台宗の学僧・歌人。
新井白石(あらい はくせき):江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。
天之手力雄命
(あめのたぢからをのみこと)
山岳信仰の神、スポーツ・力・勝負・技芸の神
天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)は天岩戸神話の中で登場する怪力をもつ力が強い神様です。
太陽の神様である天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、高天原(たかまがはら:天界)を荒らし幾度も乱暴を重ねる弟神の須佐之男命(すさのおのみこと)に怒り果て、天岩戸(あまのいわと)に引き篭もってしまいます。そして、高天原も葦原中国(あしはらのなかつくに:地上)も闇に閉ざされてしまいました。困り果てた八百万の神々はどうにかして天照大御神を外へ連れ出そうと相談の末、八咫鏡(やたのかがみ)と八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)を榊にかけ、、天岩戸の前で天鈿女命(あめのうずめのみこと)たちが神楽を舞いました。神々が笑い声をあげるなか、外の出来事に興味を惹かれた天照大御神が扉を少し開け覗くと八咫鏡に写る自分の姿を貴い神だと勘違いし、もっとよく見ようとした瞬間、すかさず天之手力雄命が天照大御神の手をとり、外へ連れ出します。そして、この世に再び、太陽の光を取り戻すことができました。
菅原道真公
(すがわらみちざねこう)
文学・詩歌・書道・芸能の神、慈悲の神
菅原道真公は天照大御神(あまてらすおおみかみ)から生まれた農業、産業の神様である天穂日命(あめのほひのみこと)に起源をもち、力が強く学問に優れた豪族である野見宿禰(のみのすくね)を祖とし、御父は菅原是善(これよし)公、御母(伴氏娘)は神代以来の名門大伴(おおとも)家の出であります。西暦845年(承和12年)に御誕生になり、庭前の梅花を見て、わずか5歳で和歌を詠み、11歳にして「月夜見梅花(げつやにばいかをみる)」の詩を作られるなど、幼少より学問の才能を発揮されました。
33歳で文章博士となり、42歳の時、讃岐守として四国に赴任、農耕・畜産に尽力されました。その政治力を認められて宇多天皇の信任を得、しだいに重用されて、位階も昇進の一途をたどりました。897年(寛平9年)に醍醐天皇が即位された後も、道真公の信任は益々厚く、899年(昌泰2年)に左大臣藤原時平と並んで右大臣兼、右近衛大将(うこんえだいしょう)に任ぜられ(御歳55歳)、ついで901年(昌泰4年)正月には従二位(じゅにい)に叙(じょ)せられるに至りました。
しかし、時平の政略によって太宰権帥(だざいのごんのそち:太宰府の副長官的な役職)に左遷され衣食ままならぬ厳しい生活を送られることになりました。
配所での道真公は、門を閉ざして出でず、ひたすら謹慎の意を表されておりましたが、903年(延喜3年)2月25日、ついに薨去(こうきょ)されました。御年59歳。
道真公は宮中での歌会で醍醐天皇からの「秋思」という勅題に対し、見事な詩を詠み、褒美として御衣(ぎょい)を賜るほど、たいへん詩文に長じたお方でありました。
左遷された1年後に去年の宮中での宴を思い出し、醍醐天王をお慕い申しあげる漢詩を配所でお詠みになった「九月十日(去年今夜侍清涼)」の詩は、特に広く愛誦されています。
後世、道真公は「天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)」という神様の御位を賜ったことにより、菅公の神霊への信仰を「天神信仰」と呼ぶようになりました。
やがて、道真公の学問に対する偉大な事績やその人柄から、天神信仰は文道の大祖、文学・詩歌・書道・芸能の神、慈悲の神として崇められるようになり今もなお、学問の神・誠心の神として全国の天満宮で「天神さま」と崇拝されています。
御著の詩文集に「菅家文草(かんけぶんそう)」「菅家後集(かんけこうしゅう)」があるほか、「三代実録」「類聚国史(るいじゅうこくし)」「新撰万葉集」などの編著にも当たられております。世に菅公・菅丞相(かんしょうじょう)とも呼ばれ、後世、学問の神さまといえば道真公をさすようになりました。
天神信仰
「天神信仰」とは、神さまとして崇められた菅原道真公の神霊に対する信仰をいいます。本来は、天神とは地神(くにつかみ)に対する「あまつかみ」で、特定の神さまをさすものではありませんでしたが、菅原道真公が火雷天神と称され、雷神信仰と結びついたり、「天満大自在天神」の神号を賜わったことにより、菅公の神霊への信仰を、「天神信仰」と一般的に呼ぶようになりました。
菅公が、藤原時平の讒言により左遷された大宰府で亡くなった後、京都では、藤原時平を助けて菅公の左遷に努めたといわれる藤原菅根が落雷によって死去し、さらに日蝕・地震・彗星、落雷などの天変地異、干ばつ、洪水などの災害等による農作物の被害をはじめ、疫病などが次々に起きて、世の人々は不安になりました。
西暦930年(延長8年)には、宮中の清涼殿で雨乞いの協議をしているときに、にわかに黒雲がわいて落雷し、藤原清貫は死亡し、平希世は負傷するという事が起りました。
その当時は、怨霊に対する御霊信仰や雷神信仰が盛んであったので、菅公の怨霊の仕業ではないかとのうわさが広まりました。
菅公の怒りが雷の形で現れると信じた人々の信仰は、藤原氏をはじめとする都の貴族たちには恐怖と畏怖の念でとらえられましたが、一般農民には水田耕作に必要な雨と水をもたらす雷神(天神)として、稲の実りを授ける神、めぐみの神となって、広く全国に崇敬されていったのです。
やがて、道真公の学問に対する偉大な事績やその人柄から、天神信仰は文道の大祖、文学・詩歌・書道・芸能の神、あるいは慈悲の神として崇められるようになりました。
そして、その天神信仰を中心に各地に天神講などが普及して、全国の津々浦々に、天神さま、天満宮として建立され、今の世に、学問の神・誠心の神として崇拝されています。
天神さまと牛
天神信仰の中でも、天神さまと牛とは切っても切れないものがあり、古くより様々な縁起・伝承を見ることが出来ます。
道真公は承和十二年六月二十五日乙丑の年に、ご生誕になり、延喜三年二月二十五日の丑の日に薨ぜられ、また「菅家聖廟略伝」には、菅公自ら遺言をされ、「自分の遺骸を牛にのせて人にひかせずに、その牛の行くところにとどめよ」とあり、その牛は、黙々と東に歩いて安楽寺四堂のほとりで動かなくなり、そこを御墓所と定めた、と書かれています。
ほかにも、天神さまと牛との関わりについて数多く見られ、道真公がいかに深く牛を慈しんでいたかも窺われます。